学会について

研究会の歴史

産声を上げた研究会

   1990年(平成2年)7月5日に、日本における最初のサイコネフロロジー研究会が開催された。開催に至るまでには数年かかっていたようだが、太田和夫先生の強い希望により春木先生が構想を練り、数名のサポートメンバーによって実現した。
 立ち上げ時、春木先生が東京へいらしたときに善仁会横浜第一病院で精神科医として患者さんの診察を行い、同時にご自身も透析を受けていたことから、当時の日台英雄院長やケースワーカーの職員がサポート、研究会実現に向けて奔走した。私は当時病院の研究室長だったが、春木先生の高校の後輩ということもあり、研究会実行の責任者として会場などの手配やプログラム作成を担当した。全く予算がない状況での手作り研究会であった。
 当時は、おそらく日本全国の透析関係者が「サイコネフロロジー」を理解していなく、日常で展開されている精神的問題の解決策に手をこまねいていた状況であったと思われる。 しかし、精神的問題の解決方法を教わっていないことから、研究会でいきなり理論的内容を提示されても理解できない。そこで春木先生が取った手法は、トラブル事例を提示、それに対して精神科関連者が問題点を明らかにし、その対策を説明するという精神科医を中心としたカンファレンスであった。第1回目のプログラムは、前半がトラブル事例の提示であるケースプレゼンテーション、後半が精神科医を中心としたコメント、すなわち解説となっている。 また、会の名称はサイコとネフロロジ-の間に中黒が入っているが、これは春木先生がこだわった部分であり、精神科領域と腎不全領域が別々の状態であることを表している。第1回目の会を開催するにあたって私が春木先生に、「第1回を付けましょうか」と尋ねたところ、「竹澤君、3年も続けばいい方だよ。」とおっしゃって回数を入れないこととした。 しかし、春木先生の意に反し、研究会は回を重ねるごとに盛況となった。数年後に現在のサイコネフロロジーへと変更したが、春木先生は「そろそろ中黒をとっても良くなったかな」と私にささやいたことを、今でも覚えている。
 最初の3回は同一会場で開催したが、太田先生がもっと広めるために地方でもやろうということとなり、全国各地での開催となった。しばらくは精神科関連者によるコメントという形式だったが、2001年の第12回(高橋公太先生担当)から一般演題を募集、現在の形式になった。産声を上げてから10年以上かかったが、腎不全領域での精神的問題のとらえ方、その対応策を多くの関係者が深く考えるようになった。研究会の果たした役割は大きいといえる。

 

九州保健福祉大学
竹澤 真吾